インタビュー/塩職人 永井正衛
~世界有数の透明度を誇る小笠原の海水にさらに磨きをかけ結晶化に成功~
東京都に属しながら南へ約1000km、太平洋に浮かぶ絶景の群島【小笠原諸島】。
底抜けに明るい海の青は、「ボニンブルー」と呼ばれ、ユネスコ世界自然遺産に登録されています。
小笠原フルーツガーデン代表・永井正衛は、その小笠原の海水に、日本初の登窯製塩法という製法を開発し、透明度の高い塩の結晶を作ることに成功。
その完成度の高さから、「農林水産大臣賞」を受賞しました。
島塩誕生のきっかけ
「小笠原は小さい島で産業といえば観光がメイン。でもこの島らしい産業がやりたいと思い、塩作りを始めました。
最初は趣味のようなもので、自分と家族と、そして経営する飲食店で良い塩を使おうと思って始めたが、思いがけず《農林水産大臣賞》をとってしまったので、やめれなくなっちゃった(笑)
でもね、人に教えたいんですが、とてもきつい仕事だし、微妙な調整があり、私が満足した品質のものしか出せないから、なかなか人に伝えられないんです。」
限りなく純粋な塩の結晶にこだわる
塩作りを始めようと思った時、永井社長は日本の全国各地へ旅をして、その土地の塩の作り方を見て研究をしてきました。
正直、真似をしたくないというような雑な作り方をしている塩の製造所もあったそうです。
「海水は、小笠原の海からとった・・というだけで付加価値は付きます。
でも、それに甘えて雑な作り方の塩を精製していたら、結局きれいな小笠原の海の塩でも、いろんな不純物がまざってきれいな結晶はできません。」
自分で設計した世界初の登窯製塩法
永井社長に山奥の製塩加工所に案内してもらいました。
島の中心部から、海沿いに数分車で走ったところから、山道に入ります。
「毎朝5時に起きて、ここまで自転車で走ります。
そして山道を歩いて塩の工場へ行く。
往復すると一時間半かかるトレッキングのようなものですが、ちょうど良い運動。
これがあるからぼくは健康でいられるんです。」
昔は車だけで移動し、運動をあまりしなかったそうです。
ところがある日、心筋梗塞をして倒れ、ドクターヘリで東京都内の病院へ運ばれるという出来事があり、そこから人生が変わったそうです。
医食同源を考えるきっかけ
「4日間意識がない状態で、三途の川まで行きかけて戻ってきたので、看護師さんが『おかえりなさい』と言ったんです(笑)
それからぼくの食事はがらっと変わりました。
玄米と菜食中心にして、たくさん歩いて、運動をしっかりしている。
健康がどれだけ大切なのかがわかったんです。」
薬膳島辣油のラベルに【医食同源】の文字が燦然と輝いているのはそういう歴史があったようです。
父島山中にある塩の加工場
そのコンセプトが根底にあるから、薬膳島辣油の瓶に《医食同源》と書かれているんですね。
塩の加工所は、島にある山の中腹、父島のジャングルの中にあり、そこは薬膳島辣油の原材料でもある、硫黄島唐辛子の畑もあります。
ラー油のための島唐辛子はここで生産されています。
加工所に入ると、タテに3つずつつながった登り窯が2列。真夏はここに火が入るとものすごい熱さ、かなりの重労働だそうです。
丁寧な手作業のみで作られる塩の結晶
「この登窯は、鉄工所に発注して独自に作ってもらいました。2号機です。
この形になるまで失敗だらけ。なるべく燃料がかからない方法を試行錯誤しました。
これが自分で考えた登窯製塩法です。
全国で塩を作っているところでこの方法をとってるところは他にないでしょう。
とても手間がかかるから誰もやらないんじゃないかな(笑)」
「にがりが残った塩は実は雑味がすごいんです」
海水は一見きれいに見えますが、サンゴの細かいかけらなど、塩にとってにはいろんな不純物があるのですが、ただ煮詰めて裏ごしすれば良いのではなく、温度を変えていくことで排除できる不純物の種類が違うことに気がついたのが、登窯製塩法開発のきっかけになったそうです。最初の釜でぐつぐつと海水を煮る。真ん中の釜は少し温度が下がった状態。そして最後の釜はもっと低い温度。
各釜で丁寧に海水に含まれる不純物を取り除きます。
そしてとろ~っとしたところまで煮詰めた海水をフィルターで越しながら、4つめの釜に移動して、最後の仕上げに持っていきます。
最後に越したものは「にがり」として知られるものですが、売るのも手間なので、除草剤にして蒔いているそうです。
この塩でなければ!というファンからの注文が殺到
「にがりが残った状態でも、販売している塩屋さんはありますが、うちはこの状態ではまだ未完成なんです。
どうしても日本にここだけしかない塩そのものの究極の結晶を作りたかったので、ここまで極めてしまったんです(笑)」
一週間かけてゆっくりと塩にしあげていき、最後に自然の太陽のもとで丁寧に天日に干して、その後さらに目視で不純物を取り除く作業をしてやっと出荷になります。
これほどまでに手間と時間がかかるので、普通の塩より割高ですが、全国から「この塩でなければ」というファンがいて、リピート注文が多く、塩が精製できない時期には、出荷待ち状態になることも多いそうです。
島唐辛子の自社畑
畑にも案内してもらいました。
「ここで耕して、島唐辛子の種をまいて、半年かけて唐辛子を育てています。
収穫の時期になったら一斉に収穫し、乾燥させ、一年分を毎年保存しながらラー油の製造をしています。」
最初は硫黄島唐辛子のみでしたが、今は味や色合いを加味して、別の種類の唐辛子も少しブレンドしているそうです。
薬膳島辣油の瓶に「私を振って!」の文字があり、このユーモアも広くファンの方に親しまれていますが・・・
最後の一滴まで具も全部食べてほしい
「うちの辣油は具の料が本当に多いので、振らないと中にある薬膳を一緒に食べられないからもったいないんですよ。
ただ、残ったらそこにオリーブオイルや酢をいれればドレッシングにも使えます。
身体に良いものをたくさん入れているから、最後の一滴まで使ってほしいですね」
小笠原移住のきっかけ
小笠原へは移住されて来られたそうですが?
「立川市と小笠原は、古くから姉妹都市のような関係にあり、小笠原からの引揚者が多くいます。
私は昔立川で中華料理店を経営していました。
店は繁盛して、店舗も4件くらいまで増えていたんですが、釣りが好きだったのでね・・・・ある日突然、釣りが思う存分できるところに住みたいと思って、いっきに店を売って家族を引き連れて小笠原へ来ちゃったんです(笑)」
島に来て釣り三昧、楽しい日々
そして、小笠原で始めたのが飲食店をしながらの釣り三昧の日々。
釣った魚をお店に出して提供し、たちまち評判になったそうです。
「この島は移住者にとても親切で、皆さんオープンでいい人たちばかり。
子どもたちにも仲良くしてくれてすぐに打ち解けました。
薬膳島辣油のはじまり
店は瞬く間に大きくなって、ビリヤード場・カラオケボックスを併設した、中華や焼肉のお店でした。
そこで餃子を出していたので、餃子に美味しいタレを作ろうと思って始めたのが【薬膳島辣油】の始まり。
お客さんから、美味しい、これ欲しいと言われ、少しずつ売り始めたのですが、そのうちとても評判になり、通販でも全国に売りはじめて忙しくなってしまったので、 飲食店舗は島1番美味しいと評判の洋風居酒屋チャラさんに貸し、塩とラー油の製造販売に集中するようになりました。」
全国から四川料理や調味料が集まるコンテストでグランプリ
薬膳島辣油は、他にはない味、ラー油の頂点だと評判になり、全国から四川料理を集めたコンテストでもグランプリをとりました。
楽天でも部門販売1位をとったそうですし、ものすごい評判ですね。
「実は立川でラーメン屋をしていたときに、私は陳建民さん(日本に四川料理を広めた著名なシェフ)に習いに行っていたことがあり、陳建民さんがこの商売の師匠なんですよ。
そうしたら昨年の麻辣コンテンストのときの審査委員長が陳建太郎さんで、彼は陳建民さんのお孫さんなんですね。」
陳建民さんの教えがここに実った
陳建民さんの息子さんは料理の鉄人などでも有名になった陳建一氏。健太郎さんは健一さんのお孫さんだそうです。
「小笠原フルーツガーデン、ネットショップ店長はうちの息子なので授賞式に行ったときに、グランプリをとったラー油の製造者が、陳建民さんに習っていたんですよということを息子が話して、時代を経て《陳建民さんの教えがここにも広がっている》と大変喜ばれ、盛り上がったそうです(笑)
四川料理の原点に認められたようで大変光栄でした」
子供を育てるにはとても良い離島
小笠原は実は海が好きで移住してくる若い人がとても多く、若者や、若い夫婦にはとても良い環境の島だそうです。
逆に歳をとって健康に自信がなくなると、大病院に近い場所に住みたいと、東京都内へ出ていく人が多くて、日本の少子高齢化社会とは逆の形の人口だそうです。
小笠原の土産としてこれからも辣油と塩を
「海が好きな若い夫婦がここに移り住むのですが、観光以外にはとりたてて大きな産業がないので、ここで辣油作りの仕事を増やして、若い世代の仕事を作りたい、島の産業になったらいいなと思っています。
そして小笠原へ観光に来た人が記念にこの島唐辛子の食品をお土産に買っていってくれれば、島も発展するし、小笠原の良さを日本全国に広げたいですね。」